大阪ゆかりの人物(井原西鶴)

井原西鶴の生涯についてご紹介します。

与謝野晶子の生い立ち

与謝野晶子は1878年に大阪の堺で3女として生まれました。家は老舗の和菓子屋で、羊羹の販売を行なっていました。与謝野晶子は、成長して堺女学校に通う頃から日本文学を愛し、実家の和菓子屋の帳場に座って、帳簿をつける手伝いをしながら源氏物語をよく読み、自ら作品を書いていました。1900年に大阪を訪れた与謝野鉄幹に会い、堺の浜寺海岸で恋をしてしまいます。その後、鉄幹が設立した東京新詩社にメンバーとして参入し、その翌年には鉄幹と結婚するため上京します。与謝野晶子は数々の作品を発表し、中心的な人物として活動しました。

与謝野晶子の活躍

1901年に与謝野晶子はみだれ髪を出版します。その内容は、情熱的な鉄幹への愛情を歌い上げています。鉄幹は有名なプレイボーイで、晶子以外にも多くの女性と関わり、子供も作っています。そして、1905年に山川登美子と合同で恋衣を出版しています。また、日露戦争が勃発すると、反戦的ともとられる君死にたもうことなかれを発表しています。与謝野晶子は反戦的な強い詩のみならず、現代語訳源氏物語を書くなど、古典にも深く関心を持ち、関わってきました。そして、鉄幹の妻としても、11人の子をもうけ、64歳には、舞姫などの叙情あふれる作品を数多く残しています。

与謝野晶子と山川登美子

山川登美子と与謝野晶子は作品も人生も対照的な人物でした。鉄幹は妻である滝野と別居状態でしたが、鉄幹は与謝野晶子と同時に山川登美子と恋愛関係にあり、山川登美子は与謝野晶子にとってライバルでした。しかし、山川登美子は、親が決めた見合い相手と一緒になるべく田舎に帰り、結婚しましたが、2年後に夫と死別してしまいました。登美子も結核にかかり、30歳前で他界し、寂しい人生を終えました。鉄幹はとても心を痛め、君なきか若狭の登美子しら玉の、あたら君さえ砕けはつるかと、悲しみの詩を残しています。

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