大阪ゆかりの人物(千利休)
千利休の生涯についてご紹介します。
井原西鶴の生い立ち
井原西鶴は江戸時代前期に俳人、浮世草子作家として江戸前期に上方で活動しました。生まれは寛永19年、大坂生まれで、町人の裕福な家に生まれました。15歳になると俳諧を学び、成長すると、談林派の西山宗因から俳諧を学びます。談林派の俳諧は形式にとらわれず、通俗的で流行を捉えた詠み方が特徴です。井原西鶴は頭角を現し、代表的する談林派の俳人として名を馳せました。特に、京都三十三間堂の通し矢にならった矢数俳諧という一昼夜のなかで俳諧の数を競う大会で、井原西鶴は延宝8年に4千句の独吟矢数俳諧の新記録を出しました。
井原西鶴と浮世草子
井原西鶴は結婚して子供が三人居ましたが、妻が亡くなると、西鶴は坊主頭になって浮世草子の作品に取り組みました。浮世草子はとても人気がでて、井原西鶴は売れっ子作家になります。天和2年に、好色一代男という小説を発行します。この作品をきっかけとして娯楽的な浮世草子が大流行し、西鶴は好色一代女、男色大鑑など次々と作品を発表します。
没後
元禄6年の8月10日に井原西鶴は52歳で亡くなってしまいます。没後、西鶴の弟子である条団水らが西鶴の原稿を整理し、編集を加えた西鶴織留や西鶴置土産などが発表されました。西鶴の作品は、江戸時代だけでなく明治時代後半まで多くの人に愛され、その後の作品にも影響を及ぼしています。井原西鶴は、延宝から元禄期にかけての文化に大きく影響を与え、近松門左衛門らと共に江戸時代前期を代表する文化人として名を挙げることができるでしょう。井原西鶴の墓は誓願寺にあります。誓願寺は戦災で本堂が何度も焼けてしまい、度々途絶えたこともありますが、毎年9月には西鶴忌が行われています。西鶴の墓は1887年頃に誓願寺の境内にある無縁墓にあったのが発見されました。
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